眠ノ記

寝言と黒歴史を丁寧に磨いてお出しします

『道京』-4. ドキドキ

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4. ドキドキ/2003年12月28日~29日

もちろん、文さんに恋人がいることは知っていた。10歳ほど年上で、大手企業で若くして役職を持つ。未来を築くパートナーとしては申し分のない相手だ。

1度だけ顔を見せてもらったことがある。よく片付いた部屋のソファに浅く腰掛けて、膝の間で指を組んだ何気ない写真。人に構えることのない、柔和な笑顔が印象的だった。

結婚。いくら条件が揃っていても、それはあまりにも早い決断に思えた。年齢だけじゃない。彼女はまだまだ野心的で、その思考が誰かに縛られるのは想像がつかなかった。

それに、ほんの数か月間にも、彼女は意味深なセリフを漏らしていたのだ。
「彼に気持ちを注ぐ場所が、なかなか見つからない」
見つからないのは「もう」なのか、「まだ」なのか。やっと見つけることができたのか。

 

  

記念の正体はまるで予想しないものだった。エアコンが効き始め、徐々に部屋が暖まっても、投げ放たれたままの告白は冷え切った床を転げていた。

「チャンネルの番号も東京と全然違うね」
文さんはテレビを点け、両手でリモコンをザッピングしながらそう言った。そして、ほんの十数秒でスイッチを消す。彼女は沈黙をまるで恐れない。僕がどんな風に反応しても動じない覚悟があったのだろう。それが証拠に、手を慌ただしく動かす癖も出なかった。

「実感はきっと、これからかな。正直ずっと迷ってたから。すぐに式の準備をしたり、旅行へ行ったり、そういうわけじゃないの。ただ、形を決めたいと思って」
その表情は、幸せからほど遠かった。
それはそうだ。決められた儀式をこなすなんて話は、彼女にとって苦痛以外のなにものでもないのだから。

 

僕は食器棚からグラスを取り出して、さっき買ったばかりのビールを開けた。酒はあまり飲めないけど、だからこそ、こんな時くらいしか飲む機会がないのだ。色気のない大理石のテーブルが、生ぬるくなった缶をいっそうまずそうに見せていた。

「形を決めるっていうのは、籍を入れるっていうことですか?  それとも、別の意味で」
なんとなく言ってはみたものの、そんなことに興味が本当にあったのかもわからなかった。
「まあ、いろいろだね。出会った時から、家族みたいな人だったし」
家族。その言葉は、僕から質問する気力をいっぺんに奪いとった。

形を決めたい。その真意について、文さんはいつになく慎重に伝えてくれたように思う。彼女の答えは僕の心の真ん中にある柔らかい膜をかすめたが、決壊させるまでには至らなかった。分かったのは、仕事、東京、そして僕に対して、一定の区切りを決めたこと。
最後のひとつは希望的観測かもしれない。でも僕たちは、まったく何もない間柄ではなかったから。

 

アルコールが入って、冷えた耳がようやくほどけてくる。型の古いエアコンが濁点交じりの音を立てる。あまり心地いいものではないので一度スイッチを切ってみたが、10分もするとすぐに寒くなってしまった。

「これ着てみてもいいかな?」
彼女はそう言って、少し前まで僕が着ていた上着を両手で抱え上げた。
腰から背中にかけて、ギターを弾く男のシルエットが巻きつくようにプリントされた、黒のジップパーカー。当時のお気に入りで、かなりの頻度で着ていたものだった。文さんは恋人ごっこをしてからかうような人じゃない。もしかしたら彼女なりに気を使ってくれたのだろうか。

僕はキッチンに移動しながら、背中ごしに「どうぞ」と答える。ポットに水をためて、硬くなったインスタントコーヒーの蓋をひねる。

 

すると思わぬ方向から声がした。彼女はいつの間にかリビングからいなくなり、キッチンから壁一枚隔てた洗面所に移動したようだ。ひょいとのぞいてみると、鏡の前でポーズをとるのが見えた。くるくると身を翻し、袖や裾を軽くつまんで伸ばす。

男物の服が珍しいのではなく、サイズが新鮮だったのかも。彼女の夫になる人は、僕よりも一回り小柄と聞いたから。僕は変な気負いを覚えてキッチンに戻った。
「大きくなったもんだねえ」
壁の向こうから、文さんが思い出を語りかける。とりとめのない話はポットの煮沸音に邪魔されて、古いビデオテープみたいに途切れていく。僕は無人のリビングを眺めながら、見られることのないゆるい相槌を打った。

飲みかけのビールが置かれたテーブルと、L字に置かれた大小のソファ。その繋ぎ目にはちっぽけなサイドテーブルがあって、銀行の名前が入った卓上カレンダーが置かれていた。すでに12月までめくられていて、あと数日でその役割を終える。きっと、父の会社の人が利用したのだろう。

もうすぐやってくる2004年のことをぼんやりと考える。3月、彼女が1つ年をとって、10月になったらまた同じ年で。理由は分からないけど、僕は昔からそうやって並ぶ日々が嬉しかった。

 

音が途切れて、はっとする。ただお湯を沸かしていただけなのに、ずいぶん長く時間が過ぎたような気がした。
珈琲、できますよ。
呼び掛けても返事はない。どう考えても聞こえない距離ではないから、もう一度言うのはやめておいた。

換気扇をつけて、2本目の煙草に火を点ける。ゆっくりと煙を吸い込み、火のついた吸いがらを灰皿に投げこんで、マグカップを両手に持って洗面所に向かった。

文さんは、まっすぐにこちらを見つめていた。目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。キャミソール姿で、パーカーを両手に抱えたまま、鏡に自分の背中を映しながら、
「間に合わなかったね」と言った。

 

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僕は理解に苦しんで目を細めた。大げさでなく天地がひっくり返ったような気分だった。涙の理由どころか、1年間まるごと、まるで分からなくなった。
床にへたり込み、目を伏せた文さんを見つめる。その姿は、誰かが落とした傘のように小さい。僕は膝を落とし、マグカップを床に置くと、「あの」とひと声かけてから距離を詰めた。嗚咽はない。頬に張りついた髪を剥がしながら、指で涙を拭う。脱ぎかけたまま彼女の両手に巻きついたパーカーを、時間を戻すようにかぶせてあげる。それから手を引いて、2人、なぜか小さい方のソファに並んで座った。

テレビをつけてみる。深夜のニュースが除雪作業の模様を繰り返す。それは映画で見たような青い景色。水が好きな女が涙で、火が好きな男が煙草で。頭が独りでに、物語を作り始める。

そんな作業は、今日で終わりになるのに。

 

テレビから流れ出る言葉はやがてただの音になり、雑音になる。それにまぎれて、ついさっき文さんが漏らした台詞が頭の中で反響した。

間に合わなかったね。
いったい何が。近い過去から順に手がかりを探して、出会いの風景まで遡った。僕はずっとゆっくり、彼女の後ろを歩いてきた。間に合わないどころか、追いついたことは一度もなかったな。

「大丈夫?」
僕が特別に敬語を外して話しかけると、彼女はかすかにうなずく。めったに見せない弱い顔だった。手を握ったり、抱きしめれば、何かが溶け出すのかもしれない。でも、ついさっき結婚報告をしたばかりの女性は、軽はずみにそうするにはあまりにも異質だった。

 

深夜2時、ちゃんとした番組は終わって、モニターではJ-POPのPVがぐるぐると回り始めた。顔に明日の天気を乗せて、ヴィジュアル系バンドが声を張り上げる。たとえそんなものでも、深夜に聴く曲は、自分だけに歌ってくれているようで心地がいい。

中学生のころは週末になると必ず、カップラーメンを食べながらプロレスを観てたっけ。終わったら熱を持て余して、今みたいにぼーっとしてテレビを眺めることもあった。

初めてJUDY AND MARYの『ドキドキ』を目にした特別な夜。軽いカッティングと一緒に胸の奥が弾けた。ブレザー姿のYUKIがくるくる回ると、僕は慌ててビデオの録画ボタンを押した。あっという間に魅せられ、何かになりたくてギターを買った。特別なことは、いつだって深夜に起こるものだ。そして、そんな思い出も彼女ににつながる。

文さんの寝息が聞こえてくる。僕は押し入れから「洗濯済」のシールが付いた真新しい毛布を取り出した。
かける前に少しだけ迷う。
彼女の横顔は、長い髪で完全に隠れていた。くしゃくしゃになって、頬にへばりついて、迷路みたいに複雑な柄をつくっている。

僕は地べたにひざまづくように毛布をかけると、そのまま、眠る彼女の肩に頭を預けた。自分のパーカーだから別に構わないだろうと、また変な言い訳をして。
深く息を吸ってみる。そこには彼女のにおいと、僕のものらしいにおいが混ざっていた。

 

 

帰り道は行きよりだいぶ賑やかになった。文さんは何事もなかったように饒舌で、『カレーの歌』が流れたって何も気にしない。冬空に映える純白の景色をまっすぐに見つめていた。

結婚のニュースをどう受け止めるべきか、僕にはよく分からない。ただ、彼女が見た目以上に大きな葛藤を抱えていたことは確かだった。1年ものあいだ街を歩きながら、隣で何を想っていたのだろう。

雪のある場所から、雪のない故郷へ帰る。県境を超えるたび、追手が群がるみたいに車が増えて、ビルの数だけ空が狭くなっていく。そうか、これが東京なんだな。彼女と一緒に東京の外へ出たのは、この日が最初で最後。僕たちはつくづく小さな世界で生きていたものだ。

こうして2003年が終わり、僕は翌年の3月に大事な人を失うと聞かされた。2月のキーワードは<温もり>で、3月は<歩み>。そして、4月が<嘘>。
あまりにも偏屈な表現だけど、本当に嘘、みたいだった。

 

 

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「白い花」

 

渇望は桜色の花のように
訪れて狂おしく誇らしげ
わざと強風を見計らって
短く咲く、嘘みたいな真実

背の高いビルが
東京の空を切り取って
僕らはそれを
思い切り見上げた
彼女のシャッター音が
細切れに砕いていく
純粋さと悩みを
重そうに首からぶらさげて

 

そんなハンデ 抱えて
彼女が描いた
僕の指のデッサン
ファミレスで見せてくれた
指の付け根が黒いのは
怠けた痛みか

強く押し付けた影なのか 

 

やめる、なんて言葉を
ゴミ箱に投げ捨てて
吸い続けていた右手の煙草
夜更け
互い想いにふけり
強いアイデアを抱いた 

 

書き溜めた、プラトニックな野望
朝方のサンシャイン通りにばらまいた
要らない靴が捨てられて
真新しい足音が行き交う

無知と雨のにおいふくんで
むせかえるように強く、強く 

 

道端に
エアコンから漏れる熱風
横っ面をはたけば
それなりに気分も悪いけど
歩いていく
丁寧に、馬鹿正直に
既成のカレンダーを破いて

 

彼女の指が
黒鍵に乗せた指が
まるで連弾のように
僕の言葉をつまみ上げる
さっき破れたカレンダーは
春風に乗り
白い花びらになって
エアコンの風に乗っていく
何かが、繋がっていたようだ

 

笑い合って
魔法の泡のようにかたまった
意志と夢のにおいふくんで
振り返ることも強く、強く

捨てるのも
舞い上がるのも
すべては春のまぼろし

白い花びらのアーチの下を
僕らは思い切り歩いていった

 

―4月<嘘>の言葉―