眠ノ記

ーネムノキー

気になる言い回しを斬ってみよう

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世の中にあふれる、正しそうで、妙にモヤモヤする言い回し。
そんな言葉たちに一度でいいから反論したい。
田原総一朗くらい爽快に憎たらしく、「僕は違うと思う」とのたまってやりたい。
ただそれだけの回です。
どうぞ。

 

 

「暇があったら手を動かせ」

バイト先の店長にありがち。

考える時間、集中する時間、熱を冷ます時間。人間の動きが止まることは決して悪ではない。良い休符が良い音楽をつくるように、うまく強弱をつけて働いた方がいい仕事もある。

無駄に立たせて大声を張らせるから、いつまでたっても飲食はバイト不足になる。お前、それ将棋の棋士にも言えんの?と聞きたい。ずっと動いた方がかっこいいのはパンクロッカーだけだ。

繁忙期という名の勝負どきまではむしろ抜け。寝そべれ。

 

「これって私のせい?」

知らん。それくらい自分で判断してほしい。言霊とはよくいったもので、口に出すことで、かえって誰かのせいだという変なムードが出来上がってしまう。もし言いたいなら「どうしたらもっと良かったんですかね?」とかにしてほしい。(ただし意識チョモランマはNO)

もし誰かのせいだとしても、全力でやった結果なら気にする必要はない。雇ったやつ、配置したやつ、フォローしきれなかった周りのやつ、全員悪人。

 

「怒られているうちが華」

理屈はわかる。ただ、「華」というワードチョイスが納得いかない。怒られるなんてどう考えたってそんな良いものじゃないからだ。あまりに美化されすぎて、怒鳴りつける側が自分たちの罪悪感を削ぐために作った言い回しに感じてしまう。

本来は「華」の部分にもあんまり好ましくないものを入れるべきだ。
「怒られてるうちがまだ矢口。吉澤まで行ったら終わりだぞ」

という方が文法的に正しい。

 

「〇〇にだっていい人もいる」

社会問題を語るとき等々、何かをかばいたいあまりにこう言う人がいるが、これほど無駄なものはない。
「●●区は治安が悪い」→「いや、人による。●●区にだっていい人はいるよ!」みたいなやつ。
いや、それは分かっていると。個人じゃなく統計の問題だと。良い人が安心して暮らせるよう、悪い部分を除去しようという話なのだ。

それはスズメバチの巣が8個がぶらさがった一軒家を見て、「みんな危ないって言わないで!家自体は住みやすいんだから!」とかばうようなものだ。問題はそこじゃない。

 

「うーん、悪い人じゃないんだけど」

フォローしてる風、バランスをとってる風、の便利風な言葉。これが安易な臭み消しに使われることで、被害者の救済が遅れてしまう。

・Aさんは酒さえ飲まなければねえ→悪い人じゃ~

こうして話がふんわり着地すると、Aは煙たがられたまま。被害者は言いくるめられただけだし、まわりはもったいないなあ…と苦い顔。誰も得しないのが分かると思う。普通にAを更生すべき。

 

「世の中金だよ」

成功者がホモ・エコノミクスと言われて久しく、金が大事だ、なんて息しないと死ぬよくらいに普通の話である。いくら1ミリも頭を使ってこなかったからといって、こんなそもそも論を長い旅路の果てに行き着いたようにつぶやかれても困ってしまう。

金が絶対的で分かりやすい豊かさのカタチだからこそ、初めて手にした者には分かりやすい喜びがあり、手に入らない者や手にしすぎた者はカタチのない幸せを模索する。
世の中金だし、金じゃないんだよ。

 

「血液型は科学的根拠がないから…」

なぜ、この件に関してだけ科学盲信者になる人がいるのか。

指摘する人は、科学的に優れた姿勢で歩き、科学的に住みやすい土地に住み、科学的にうまい定食を食い、科学的に優れている人を愛するのか。

むしろ占いや宗教なんて、科学的根拠で正論を突きつけられたくない時にすがるものだ。大雨だしどう考えてもつまらない仕事を迎える朝、今日のあなたはラッキー!なんて気休めを言ってくれるのはめざましテレビくらいだろう。

ほとんどの人は信じてないし、便宜上4分割すると話題にしやすいだけだ。根拠とか気にする奴は絶対A型(俺と一緒で)。

 

「吐」からマイナスをとると叶うになる…」

グレートティーチャー金八より伝わる言葉遊び。

指導上の工夫は認めるけれど、もあまりにもご都合主義に思えてしまう。だって、「吐」くから「叶」うに変わるときは棒のことをマイナスっていうのに、「辛」いを「幸」せにするときは、ちょっとした棒を一本足すだけで…とか言うんだもの。

お前、その感じで全部いくんだな?と言いたくなる。「怒」りは女のマタに下心を抱いたときに生まれるんだと。「尻」には何かしらが九個あるんだと。薔薇はどうだ。薔薇はどうなんだ?ん?

 

「やらずに後悔するよりやって後悔したほうがいい」

無責任にもほどがある。こいつ告白させた方が展開おもしれーなという野次馬根性をひしひしと感じる。周りが見えてない人の背中をそんな風に押したら、やるに決まっているじゃないか。

あえてやらない方がいつまでも理想を抱けるというメリットもあるし、めちゃくちゃリスクを減らすまで固める手もある。やって後悔しないベストな方向を一度は考えるべき。

もし失敗してでも行動しろと伝えたいのなら、後悔などと辛気臭い言葉を使わずに
「悩んだふりしても結局はココ。騒いじゃうんだろFoo!」と胸を叩いてやればいい。

 

「というか誰?」

ネットニュースで芸能人を叩くときに湧くやつ。
匿名でこれをいうというのは、高度すぎて世界中の誰も笑えないジョークだ。

 

「正論」

僕にとってはすごく不思議な言葉。誰かの意見を評するときに、「そう思う(共感)」や「一理ある(合理)」を超えて、「正しい(断定)」と断ずる。そこまでいくと、なんとなくその人と議論する気は起こらない。

A.人に迷惑をかけるな
B.人は1人じゃ生きていけないから頼るべき

のように、広く支持される論理同士は、ある部分で同時に成り立ち、どこかで少なからず矛盾する。「正論=単品で破綻せず成立している」くらいに考えておくのが良いのだ。それが最近では「人を打ち負かせる論理」の意味で使っている人が多いように見えてならない。

「屁はくさい」も立派な正論。正しくても魅力ない論理なんて、オナラプーである。

 

以上!
最後は不本意にも朝日新聞みたいになってしまいましたが、私なりの屁をこかせていただきました。屁ってすっきりするよね。すっきりするのって自分らしいよね。自分らしいのっていいよね。だから屁理屈って正論だよね。
(第二回に続く ※日にちは未定)